10月9日、水郷柳川を訪ねました。 柳川は豊臣秀吉が九州を平定したとき、活躍した立花宗茂がその功により筑後13万石の城主として柳川に封ぜられました。しかし宗茂は関が原の戦いで西軍に味方したため柳川を追われます。代わって柳川30万石の大名として封ぜられた田中吉政は、名城として知られる柳川城を築き、掘割の整備などに着手しました。 20年後、徳川二代将軍秀忠により、立花宗茂が再び12万石の城主として再封され、以後明治維新まで藩政が続きました。 かつていろいろに利用されていた掘割も、一時は省みられず、汚泥がたまりゴミ捨て場と化していたそうですが、60年代ころから、その歴史的価値を見直し、町づくりの大切な要素として当初の姿を取り戻そうという運動が起こりました。中心となったのは広松伝氏ですが、今では市民と行政が一体となり、環境への関心のたかまりもあって、美しい掘割の町がよみがえってきています。 柳川はまた、北原白秋のふるさととしても有名です。白秋は明治18年、代々柳川藩の御用達である大きな海産物問屋(後に酒造業となる)に生まれ、19歳で上京するまで柳川で過ごしました。白秋の詩心を育み開花させたのは、ふるさと柳川の地そのものだったのでしょう。 柳川では、船頭さんのあやつる小船で掘割を遊覧しました。船頭さんは、白秋の詩を朗々と歌って、旅情をかきたててくれました。 川くだりの終点は、「御花」と呼ばれる立花家の別邸です。4代立花鑑虎が最初に集景亭と名づけた屋敷を構えましたが、現在の建物と庭園の大部分は明治42・3年に14代立花寛治によって新築されたものです。当時流行した西洋館と大広間に、園遊会場を備えるという建築様式を代表するもののひとつです。 |
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